障害者殺傷事件~名前が公表されないことに想う
相模原の知的障害者施設で暮らす障害者を狙った殺傷事件で、神奈川県警は「(現場)の施設にはさまざまな障害を抱えた方が入所しており、被害者家族が公表しないでほしいとの思いを持っている」との理由で、殺された人たちなど被害者の名前を公表しないとしています。
通常は、殺人などの被害者の名前を公表する中、今回、公表しないことについて違和感を覚えます。今後警察は、家族が被害者の氏名を公表しないことを望めば、公表しないことを貫くのでしょうか。それならば一定の理解はできるのですが、今回は被害者が「障害者」であることが大きく影響しているように思えてなりません。
氏名を非公表としてほしいと願ったご家族のお気持ちには、家族を失った辛さ、悲しみ、怒りがうごめく中、マスコミが押し寄せ取材されることを阻止したい、「そっとしておいてほしい」等の思いを持たれていることが大きくあると思います。
事件の検証等を理由に被害者家族を取材する報道被害についてはマスコミが自重していくべきことで、それはマスコミが抱える大きくて重い課題です。
ご遺族の気持ちは尊重されるべきであると思います。
一方、ご遺族の気持ちを無視することや報道被害が無くならない実態はあっても、犠牲になって亡くなった方たちの「生まれてきてから亡くなられるまで」ずっと呼ばれてきた名前が非公表となり、性別と年齢のみが発表されることに、何とも切なさを感じてしまうのです。
障害の有無に関わらず、誰しも人とのつながりの中で生きていきます。
名前が公表されれば、そこにその人が見えてきます。
殺された方たちとゆかりのあった人がその人の生前のことに想いを馳せて、改めてご冥福を祈ることにもつながるチャンスにもなると思えてならないのです。
あってはならないこうした事件で犠牲になった方々にとって、ひとりでも多くの人が、つながりを思い起こすことが、殺された方たちの生きた証しとなり、想いを馳せた人にとっては、「障害のある人がいなくなればいい」ということがまったく間違った考えであることをさらに強く実感することにもなるのではないでしょうか。
家族だけでなく、つながる人たちがいて、その人が亡くなったことに憤り悲しむことに、容疑者が「障害者なんていなくなればいい」と思う偏った思想に、いつか気付くことにもなるかもしれません。
私の三番目の子どもには知的障害があります。容疑者の「障害者なんていなくなればいい」と、障害のある人の命を軽く見ていることに大きな怒りを覚えます。また、なぜ、そのような想いにかられ、殺傷するまでに至ったのか、恐怖も感じます。
事件の後に、同じように障害のある子を育てる親御さんたちから連絡を頂きました。
容疑者の凶悪な犯行への憤りと、一方、社会に容疑者の考え方に近い人もいることの不安の声がいずれの親御さんからも出ました。
例えば
学校では、「みんなと同じことができないと迷惑になるから」「人手がかかって大変だから」との理由から、障害のない子達の中への参加を拒まれたりといったことがまだまだあります。
自宅近くに障害者施設が建設されるとなると反対運動が起り、「障害者の獣のような叫び声を聴くようになるのは耐えられない」「障害者施設ができたら地価がさがる」というような意見が飛び出します。
それだけに、障害のある子を持つ多くの親たちは、今回の事件を容疑者の心の闇を考えることで終わらせず、社会にある偏見や差別に目を向けてもらいたいとの願いを持っています。
障害のある子を持つ親たちからは、犠牲者の名前を公表しない背景には、ご家族の中に、ひょっとすると障害者が家族にいることを伏せて暮らしてこられた方や、施設で暮らしていることを知られたくないという家族もいるのかもしれない・・・との話もでました。
仮にそうだとしても、積極的にそういう選択をしてきたはずはありません。
子どもを授かったときにはそのような思いを抱くなど考えたこともなかったと思います
社会の障害に対する偏見や差別を感じての子育ての結果なのだろうと、自分たちの体験も踏まえての話になりました。
それでも、家族の複雑な思いが「障害」となり犠牲になった人たちの名前が公表されないのだとしたら、それもまたとてつもなく切ないものです。。
犠牲者の家族が非公表を望む想いを考えると「障害」は個人にあるのではなく、人を含めた周囲の環境、社会につくられるということを改めて考えます。
ちなみに、殺された19人の犠牲者が、障害者施設で暮らす障害のある人たちでなくても、警察は氏名を非公表にしたのでしょうか・・。
わりきれない思いがぬぐえません。
犠牲となった人のこれまでの、ここからの人生があります
二度と起こらないように、私たちは何ができるのでしょうか。
障害があっても、人に支えられるばかりでなく、必ず誰かを支えています。
迷惑な存在でも、早く死んだ方が幸せな存在でもないこと。
障害があってもなくても「人」であり、命の重さに違いはないということ。
当たり前なことを誰もが実感を持てる社会の実現に向けて、より踏み出すためには、これまで通りでは足りないという視点も大切だと思います。、
幼いころから障害の有無で分けられることなく共に過ごせる保育・教育環境を、地域では、障害があっても無くても共に一員であることを想い描ける日常を築いていくことこそが重要です。
障害のある人が、その人らしく堂々と生きていく、障害のある人が家族にいることを負い目に感じずにいられる社会。そうしたことを目指すことが、今回のような凶悪な事件の再発防止になると信じています。
7月29日付 毎日新聞に取材を受けました↓
“障害者殺傷事件~名前が公表されないことに想う” に対して17件のコメントがあります。
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大笹生学園の職員 カッターで不適切な指導
(福島県)
知的障がいのある子どもが入所する福島市の施設で、職員がカッターナイフを持ち出し、不適切な指導をしていたことがわかった。
不適切な指導があったのは、福島市にある県の施設「大笹生学園」。
先月29日、長湯を注意されて脱衣所で興奮状態になった10代後半の生徒に対して、40代の男性職員が、職員室から持ち出したカッターナイフを刃が出た状態で持たせた。
そして「指示が聞けないなら自分を刺せ」と発言したという。
ほかの職員がカッターナイフを取り上げ、生徒にけがはなかった。
職員は「無我夢中で、カッターナイフを持ち出してしまった」「大変申し訳ないことをした」などと話しているという。
学園は、職員の指導を徹底し再発防止に努めていきたいと話している。
[ 9/6 19:25 福島中央テレビ]
上記のような事件がありました。
障害児を持つ親として、
神奈川での事件は上記のような事件が
積みかさなった結果では、と思います。
この施設では2012年にも職員がこどもに暴力を。どのようにこどもを守れば良いか分かりません。
「ご結婚や出産といった時に相手のご家族は障害の遺伝に少なからずとも疑念を持たないことはない」ということですが・・・障害者=不幸というお気持ちが心の隅にあるからでしょうか。この子たちだからこそもたらしてくれる喜び感動があります。なんでもないこと「箸が上手に持てるようになった」「言葉が出た」あたりまえのことがものすごい感動となって更なるエネルギーを与えてくれます。エネルギーに満ちた魂を持ったこの子たちが、生まれる前から差別をうけているようで悲しくなりましたが、一方どんな子でもその子らしく生きていける社会にしていかなければ解決しない問題だとも思いました。
障害があったとしても「生まれて良かった」と実感し、その人と縁をもった家族や周囲が出会えた嬉しさを実感できる社会を築くことは、誰にとっても生きやすい、豊かな暮らしにつながっていくことだと思います。
すみません。間違って他の方のコメント欄に返信してしまいました。
名前必要ない派のコメント主です。大変失礼しました。
8月3日6:コメントです。
46
被害者にも人権があり、かつ、被害者遺族が非公開を望んでいる. そこには何も疑問の余地がなく、また「通常が異常」でなかろうか.
このような文章が 何故Yahoo, Huffinton Postで取り上げられるのか… 殺伐とした世の中だ.
フィンランドは基本、加害者も被害者も匿名となっています。ただし、重篤な事件の場合は別になっているとのこと。
日本は加害者、被害者共に殺人事件などは原則、氏名を公表していく現状の中で、今回が異例であったことを通して、今後、どのようにしていくべきか、大いに議論していくべきことと思います。
犯罪被害者を晒し者にしないで欲しい。
マスコミが実名報道して自分の記事を読んでもらうための行為に後から理由付けしているだけです。金儲けのため、似たような犯罪を防ぐためには加害者を晒し者にし、どうすればモンスターに育ってしまうのかを明らかにすべきだと思います。
容疑者が犯行に至った心の闇を丁寧に検証し、二度と起きないように対策をとっていくことは重要であると思います。
今回の許せない事件をどういう風に捉えたら考えたら良いのという事について大変参考になりました。ありがとうございました。また、僕のFacebookでシェアさせていただきました。重ねてありがとうございました。
ありがとうございます。
殺された障害者の方を世間が冷たい目で見るわけないです。ご家族が名前を伏せたいのも、障害に対して恥ずかしい気持ちではありません。
例えば障害者にご兄弟がいるとして、ご結婚や出産といった時に相手のご家族は障害の遺伝に少なからずとも疑念を持たないことはない。そういった家族の方達の細かい心情を察することなく、こんな記事を書くのはやめていただきたいです。
ご意見 ありがとうございます。
もちろん、ご意見のようにきょうだいなどの結婚・出産のことも考えての非公表であると思っています。言葉足らずでした。
「障害」は個人にあるのではなく、人を含めた周囲の環境、社会につくられる だけに、より丁寧に考えていきたいと思います。
私は専門家ではありませんが、障害の原因はさまざまだと思います。遺伝を心配する人の気持ちもわかりますが、障害の原因は遺伝だけが問題なのではありません。感染や出産時のトラブル、生後の病気などによるものもありますね。
遺伝であったとしても、親族に必ず影響が出るというものでもないと思います。思い込み、という要素も多いのではないでしょうか。もっと一般社会が障害を持つ人々、さまざまな障害の原因や病気に関心を向け、理解することが大切だと思います。
どんな人も支え合い、協力しあって豊かな社会を作るためには、関心と理解が大切だと思います。よい問題提起の記事でした。
個人的にどんな事件も匿名か実名かを選択制にしていいと思ってます。普通の人間はフィクションでもひとが死んだら泣いたり感情移入出来ます。名前というのは必要ないです。
事件にさえ巻き込まれなければ密葬でも家族葬でも町内告知でも、新聞掲載でも選択出来るのに事件被害者だと全員告知というのが差別です。
ご指摘のことは今後、議論が必須のことだと思います。
ただし、今回は、「障害がある」ということが非公表につながったということが背景にあると思っています。
そのことを「どう考えるか」も、とても重要なことだとも考え記事を書きました。
Sotto虹、とタイトルをつけたフェイスブックのコミュニティページにシェアさせていただきました。ずっと名前が公表されないことに、わりきれない悲しい思いを感じながらも、それぞれのはかりしれない背景なり事情をも勘案しないといけないのだな、と私の立場からは、やや慎重にその前の投稿でも書いてみました。
それから、これは私が精神障害を持つ息子がいるなか、加害者が加害者とならないですむ道づくりがどうしてなされなかったのか、をも、ひとつ前の投稿では、これまた冷静に慎重に投稿しています。施設職員でありながら、いえ、そうであったからこそ、というのも切なすぎるのですが、彼の中の闇が薬物使用によって肥大化し、凶行に至ったという現実を、彼だけの問題にすることなく、社会に潜む課題として、踏まえたいと思って、苦しんだ末の投稿でした。薬物に関しては、統合失調症との関連があまりに知られていないために、文献をいくつか挙げることにした次第です。
今回の事件では、被害者の匿名性、加害者の一面だけが感情的に取り扱われることで、何ら教訓にできない方向づけとなりそうな世相に危惧を覚えています。
ともあれ、この今回のブログに、心から寄り添いたいと思います。そうです。加害者もどれほどのことをしてしまったのか、気づく機会すら奪われてしまっているとも言える現実がまかりとおってはならない、そう思います。
なお、このコメントは、ご本人のみに見えるようにしていただけると助かります。まだまだ、加害者への一方的な非難の声が冷静さを欠くように思えてならないなかで…。