卒業式に見る「規律の元での画一的指導」や「道徳の教科化」で危ぶまれる多様性への配慮

来年の春から学校の道徳が教科となり、先生が子ども一人ひとりの「道徳」について文章で評価する授業が始まります。

ひとつの価値観で子どもの内面を推し量ることなく、押し付けることのない、多様で多角的な授業が実践されていくのかどうか、不安がよぎります。

例えば、中学校の卒業式に出席して驚いたのが、座っている子どもたちが皆みごとなぐらいに、男の子は手をグーにして膝の上、女の子は手をグーにはしないで手の平を重ねて膝の上に置いていました。
他の学校はどうかと気にかかり聴いたところ、同様に男の子はグー、女の子は手の平で座っている学校が多いようです。 
ある小学校の卒業式・入学式の練習では、男女別の手の置き方の指導以外にも、練習の1時間は、背もたれに持たれることを禁止。持たれるとひどく叱られ、練習中は頭をかくことも背中をかくことも許されなかったそうです。そして、副校長からは「入学式で上級生が背中をかいたり動いたりしていたら、“なんてしっかりしていない学校なんだ。こんなところには不安で預けられない”と1年生の保護者は思いますよ」と指導されていたとのことです。

強烈な違和感を覚えます。
文京区でも、人々の意識の中につくられた「女性像」「男性像」=ジェンダーが存在することを意識して、性別に基づく固定的な役割分担意識や性差に関する差別や偏見を排除し、人間の多様性に配慮する視点で教育を推進することを掲げています。
当然、教育委員会として、着席時の男女別の手の置き方を子どもたちに指導することを求めていることは一切ありません。

ですが、学校現場では、座り方ひとつでも男の子、女の子、それぞれのあるべき手の置き方が指導されている。なぜなのでしょうか。
来年から始まる道徳の教科でも、こうした「男子、女子の望ましい姿」を理解している or していないことが評価の目安となることがあり得るかもしれません。

男女それぞれの着席時の手の置き方のあり方を重視する指導は、区だけでなく、国が掲げるジェンダー平等の方針ともズレが生じています。
社会の価値観と先生の教育観の中にズレがあってはならないし、早急な修正が必要です。ひとり親の世帯や子どもの貧困、多様な子どもたちの暮らしの場であるのが学校です。
教育委員会は、今一度、区が掲げる様々な計画と「ズレ」なく教育が行われているか、計画の理念に立ち戻ってしっかりとチェックし、先生たち自身の仕事を見直し、「ズレ」があれば修正してもらいたいものです。

 

ドキュメンタリー映画「みんなの学校」の初代校長・木村泰子先生の講演を聴いて来ました。
「みんなの学校」の舞台である大阪市立大空小学校は、障害の有無などのくくりにはめず、誰一人もれることなく、その子らしく安心して学べる学校を理念に、日々実践している学校です。
心に残ったお話の一つが、転勤してきたばかりの先生が歩き回る子もいる1年生の学級で「きちんと座っている子に向かって『みんなお利口だね』と言ったところ、その様子を見ていた6年生の子どもたちが校長室に飛んできて、「先生の発言はきちんと座っていない子はペケだと教え込んでいるようなもんだ」という意見を言ってきたそうです。
子ども達からは、「“手はおひざ”ということも、手がない人だったら言わないでしょう。だとしたら、別に手を膝上に置くかどうかは大きな問題ではないのではないか」との意見もあったそうです。誰も排除しないことを基本に考える、子ども達の柔らかな発想に教えられます。

大人が決めたルールや正解を押しつけて、大人がジャッジをしても、子ども達の心の中にストンと落とし込まれて育まれていくものは何もない。いっぽう、子ども自らが疑問をもち、子ども達自身がどうしたら安心して自分らしく過ごせるか、自分たちで創りだしたルールで、子ども達が安心感を持って学校生活を過ごして行く・・・そうした実践を重ねる大空小学校で、道徳が教科化される前に先生たちに研修を積んでもらいたいものです。
つい先日、文科省による初めての小学校道徳の教科書検定が終わり、8社24点66冊が出揃いました。ニュースでも話題になっていますが、文科省は検定過程で何点かの不適切を指摘し、結果的に修正されたものもあります。
例えば、「にちようびのさんぽみち」という教材(東京書籍、小1)で登場する「パン屋」を「和菓子屋」に修正。「大すき、わたしたちの町」と題して町を探検する話(学研教育みらい、小1)では、アスレチック遊具で遊ぶ公園を、和楽器を売る店に修正。等々です。
いずれも理由は、「学習指導要領の示す内容に照らして、扱いが不適切」「学習指導要領にある“我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ”という点が足りないため」と説明されています。
「親しみ」や「愛着」は内面から自然に湧き上がってくるもので、外から押し付けられるものではないのではないでしょうか。ましてや、人の心の内面を他人が外から評価しジャッジすることには恐ろしささえ感じます。もし、子どもが内面を否定されたように感じてしまうことがあれば、それはその子の人格を否定されることにも等しく、人権が尊重されていないことになりかねません。
大空小学校のように「誰一人もれることなく、その子らしく安心して学べる学校」を念頭に、一人ひとりの先生が、道徳の授業にも取り組んでくださることを願うばかりです。

 

道徳の教科化

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